知られざる映画原作の世界 小川洋子『博士の愛した数式』

 映画には数多くの原作が存在する。世界で最初の職業映画作家ジョルジュ・メリエスによる世界初の物語構成をもったサイレント映画月世界旅行』(1902年)は、仏小説家ジュール・ヴェルヌの同名原作のSF作品だ。以来、一世紀以上にわたりエンターテインメントの華やかな象徴として発展してきた映画業界を、今もなお下支えする原作の魅力を考察する。今回は2020年に『密やかな結晶』(1994年)の英訳版が英国ブッカー国際賞の最終候補となるなど、名実ともに日本を代表する小説家である小川洋子の『博士の愛した数式』(新潮社、2003年)に迫る。

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 小川洋子岡山県岡山市出身で、1988年に「揚羽蝶が壊れるとき」で海燕新人文学賞を受賞してデビューした。同賞は福武書店(現ベネッセコーポレーション)が発刊していた文芸雑誌『海燕』(1982年~1996年)の新人文学賞で、吉本ばなな角田光代などを輩出した。1990年、『文學界』9月号に掲載された『妊娠カレンダー』が第104回芥川龍之介賞を受賞。文壇ではすでに期待の新鋭として知られていたわけだが、彼女を一般的に有名にしたのは、やはり『博士の愛した数式』の大ヒットだろう。本作は2004年に読売文学賞、そしてこの年に創設された本屋大賞をダブル受賞。文庫版は当時最速の2カ月で100万部を突破するベストセラーとなった。2006年に『雨あがる』や『阿弥陀堂だより』で知られる小泉堯史監督が映画化して知った人も多いのではないか。

 

 

 『博士の愛した数式』は交通事故により、80分しか記憶が続かないという記憶障害を持った数学博士の元に家政婦として働く“わたし”が息子の“ルート”と共に博士と過ごした日々を描いた物語である。ルートというのは、もちろんあだ名で、ルートに出会った博士が「√」のように平らな頭を撫でながら彼をこう呼ぶ。この作品でも顕著だが、小川洋子の描く物語にはかなり変わった境遇を持った登場人物が出てくることが多い。マイノリティを描くとき、普通の感覚だと、とても悲壮感や残酷さが滲み出て全体的に重苦しい雰囲気となりがちだが、彼女が特異というか、好感が持てる最大の特徴はどの登場人物も卑屈ではなく、むしろ自身の欠点を誇らしく、長所のようにさえ思っている節もある、前向きなキャラクターであるという点だ。この場合は博士がその人物となるわけだが、今作では語り手である家政婦が彼に対してとても好感を持っているという点も大きい。忘れてはならないのが、この“わたし”もシングルマザーであり、社会的弱者という立場にあるということだ。そして、彼女も同じくそのことに劣等感を持ったり、卑屈になったりは決してしていない。むしろ、彼女は自身の仕事や理念に対して相当誇りを持っている。

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 前回は原作者と制作側の間で訴訟が起こった例を紹介したが(知られざる映画原作の世界~名作映画を生んだ物語の力とは~ - 曖昧模糊な世界ーBlur Worldー)、小川自身が試写会に登壇し「素数のように美しい映画です」とコメントしていることからも今回は双方、相思相愛で納得された作品となったようだ。とは言え、映画の『博士の愛した数式』は原作とは多少異なるストーリーとなっている。一番の違いは語り手が家政婦の母ではなく、中学校の数学教員となった息子のルートになっている点だ。これはかなり効果的に働いていると感じた。この物語には数多くの数学の定理が登場するし、もちろん重要な意味合いを持つから数学の教師となったルートが中学生相手にわかりやすく説明する描写は鑑賞者にとってもかなり没入感を促すからだ。そして、同時にそれは時間軸も原作と比べて未来に寄っているということになる。“わたし”が博士との日々を回想するのが原作ならば、映画ではルートが母と博士と過ごした日々を回想する構図だ。

 もう一つ、原作にはない重要な設定が映画ではなされている。博士の義理の姉である“未亡人”が堕胎しているということだ。この物語ではタイトルにある「博士の愛した数式」、最も美しい数式と呼ばれる「オイラーの等式≪eπi+1=0≫」が重要な意味を持つ。18世紀のスイス出身の数学者レオンハルト・オイラーによって提唱された。eは自然対数の底値で2.718281.....の超越数だ。10を何乗すればその値になるかという常用対数が、中世において天文学などの分野で使用されていた。これに対し、自然対数はネイピア数とも呼ばれ、1614年にスコットランドジョン・ネイピアが発表した対数表により微分積分、様々な解析の分野で応用されるようになった。πは円周率、iは虚数で二乗すると-1となる数だ。つまり、ネイピア数の円周率と虚数を掛け合わせた数の階乗に1を足すとその値は0と等しいという公式だ。

 原作で博士と未亡人とのただならぬ関係が、わたしの発見によって明かされるのは物語の後半であるが、映画では前半の早い段階で博士と未亡人の関係が永遠に損なわれたことを≪eπi=-1≫と表わした記述で、博士が未亡人に送った手紙が登場する。原作でも博士が未亡人に宛てた手紙の記述があるが、この部分は映画のオリジナルだ。いずれにせよ、博士と未亡人の関係に友人として“わたしとルート”、+1が加わることでこの関係が安定するということを博士は未亡人に伝える。そして彼らは生涯を通して付き合う関係を築くことになる。

 この部分は、より「オイラーの等式」を際立たせるために仕組んだのだろうし、小川も納得しているので、ここで筆者がとやかく言うことはナンセンスであるのを承知で言うが、筆者自身は堕胎とはいっても、ひとつの命が作品の演出で消されるということに大きな疑問を感じる。小川は芥川賞受賞作『妊娠カレンダー』で、妊娠した姉夫婦と同居する妹が、姉に胎児に悪影響を及ぼすと噂される、遺伝子組み換えのグレープフルーツで大量のジャムを与え続けるという人間の闇を平易に、むしろポップに書いている。小泉監督も彼女の世界観を十分に把握した上で、この設定を付けたのだろう。やはり同じ作者とは言え(ロラン・バルトの「作者の死」ということではないが)、個々の作品はそれぞれの世界設定がある。それを一括りにするということには、横暴さを感じざるを得ない。

 

 ただ、小川が納得しているのはなぜか。ここを考えたときに映画のラストシーンが思い浮かぶ。映画では、最後に未亡人と博士が連れ立って野外で行われる能、「薪能」を鑑賞する場面がある。一瞬なので、どの演目なのか判別はできないが、これが「隅田川」であったならば、小泉監督はこの映画で堕胎の設定を徹底して完結させていると言えるだろう。「隅田川」は、京都で人さらいに一人息子を攫われた狂女が武蔵国隅田川のほとりの柳の木の下でその息子が眠っているのを知り、悲嘆にくれる物語だ。この一つの循環は小泉監督の造詣の深さを感じさせる。筆者自身は納得していないが、小川を納得させたのも頷ける。もちろん映画としても、かなり完成度の高い作品であることは間違いない。