知られざる映画原作の世界~名作映画を生んだ物語の力とは~

 映画には数多くの原作が存在する。世界で最初の職業映画作家ジョルジュ・メリエスによる世界初の物語構成をもったサイレント映画月世界旅行』(1902年)は、仏小説家ジュール・ヴェルヌの同名原作のSF作品だった。以来、一世紀以上エンターテインメントの代表格として映画はなぜ人々の関心を集めて来たのか。筆者はやはり、そこに大きな物語の力があったからだと考えている。ここでは、その物語の力を探るべく原作となった小説などについて記していきたい。

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 今回、取り上げる作品はウォルフガング・ペーターゼン監督の『ネバーエンディング・ストーリー』(Die unendliche Geschichte、1984年)の原作で、独児童文学作家ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』(Die unendliche Geschichte、1979年)だ。映画は『ネバーエンディング・ストーリー 第2章』(1990年)、『ネバーエンディング・ストーリー3』(1994年)と三部作となっている。ここで一点、注意したいのはエンデは原作者として映画の制作シリーズ第一作のラストが彼の意図に沿っておらず、訴訟を起こし敗訴している。そのため、クレジットから彼の名前は外され、2作目以降はオリジナルストーリーとなっている。原作者と制作側が揉めることはよくあることで、有名なところでは『シャイニング』(The Shining、1980年)の監督スタンリー・キューブリックスティーヴン・キングの同名原作を大幅に改変したことからキングは映画を批判し続けている。

 

はてしない物語 (エンデの傑作ファンタジー)

はてしない物語 (エンデの傑作ファンタジー)

 

 


 なぜ、よりにもよって裁判沙汰にまでなった今作を取り上げたのか、というと筆者にとって今作は本、物語の世界への情景を強烈に印象付けた原初的な映画体験だったからだ。というのは本当なのだが、調べるまでは裁判のことなど知らず、正直ショックを受けている。とにかく、エンデが第2章公開の際に「あの映画をきっかけに原作を買ってくれたお客さんも多かったし、原作を読んでもらえるなら宣伝映画として苦痛も和らいだ」と話した言葉を胸に、気を取り直して原作のほうを詳しく見て行こう。

 物語のあらすじは、肥満で運動音痴でいじめられっ子の主人公バスチアン・バルタザール・ブックスがいじめっ子から逃れるためにカール・コンラート・コレアンダーが経営する古本屋で見つけた『はてしない物語』という古本を学校の物置で読み耽っていく内にその本の中の世界、幼ごころの君が支配する「ファンタージエン」が人々から忘れ去られることで徐々に消えてしまっていることに気づく。その世界の救世主を探す使命を受けたアトレーユは救世主が他でもない、バスチアンであることを知り本の外のバスチアンに語りかけ、バスチアンも意を決し本の世界へと飛び込み新たな世界を創造していく、というものだ。

 訴訟の問題となったのは、映画のラストシーンでバスチアンがいじめっ子たちにファンタージエンの力を借りて仕返しをするところだ。原作ではバスチアンがいじめっ子に再び会うことはない。このシーンをカットするようにエンデは要望したが、それが叶わず訴訟にまでもつれることになったようだ。

 原作の最後のシーンではバスチアンが『はてしない物語』の本を古本屋に返しにいく場面になっている。そこでコレアンダーがバスチアンの背中を見送りながら語りかける台詞がある。

 きみは、これからも、何人もの人に、ファンタージエンへの道を教えてくれるような気がするな。そうすればその人たちが、おれたちに生命【いのち】の水を持ってきてくれるんだ。(上田真而子佐藤真理子訳、2000年、岩波少年文庫

 この「生命の水」というのは、飲むと誰かを愛することができるようになる水のことで、ファンタージエンで現実の世界の記憶を失ってしまったバスチアンは、ファンタージエンの世界にあるこの水を飲んでもとの世界に戻ることになる。さらにいうと、バスチアンがファンタージエンの世界に入り込むシーンでは幼ごころの君に新たな名前「月の子【モンデンキント】」を与え、ファンタージエンを蘇らせるところから現実と物語の世界が交錯する。ここにはバスチアンの月の子へのほのかな恋心、人間が最初に抱く愛のかたちが描写されている。作中に登場する『はてしない物語』の本の表紙に二匹の蛇が八の字に尾を絡めている“ウロボロス”、無限を表す刻印があるのも象徴的である。つまり、エンデにとってこのシーンは物語の世界と現実の世界を数珠つなぎにする「愛」について記した重要なポイントであり、このシーンを現実と物語の世界が対立するようなかたちで描くというのはあり得ない解釈だったというわけだ。

 翻訳者・上田真而子岩波少年文庫のあとがきで1981年2月に当時の西ドイツでおこなわれたという翻訳者会議について振り返り、エンデからの注文について明かしている。

 翻訳された本は、言葉こそ違え、物語のなかでバスチアンが読んでいる本と全く同じ装丁の、全く同じ中身の本でなければならない。たとえば日本語版なら、二匹の蛇が浮きでているもの、なかのページは現実世界のところを赤、ファンタージエン国を緑の二色刷りに……というわけである。

 このエピソードからも分かるように彼は彼の描いた世界観をとにかく大事にする人物だったことが窺える。ちなみに、エンデは1989年に、この著書のもうひとりの翻訳者である佐藤真理子と結婚している。長野の上水内郡信濃町にある黒姫童話館には2000点を超える作品資料が本人から寄贈されていて、世界で唯一エンデの常設展を観れる場所となっている。

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 こう書くと、ペーターゼン監督がいかにも無能なように感じてしまうが、彼は『Uボート』(Das Boot、1981年)でアカデミー賞6部門にノミネートにしてハリウッド進出を果たし、『ザ・シークレット・サービス』や『エアフォース・ワン』、『トロイ』を手掛けハリウッドでも成功していることは付け加えておこう。

 エンデは1929年11月、シュルレアリスム画家の父エドガー・エンデと母のルイーゼ・バルトロメの間に生まれた。父のエドガーは帝国文化会への入会を拒否したことから、ナチス政権下で退廃芸術家の烙印を押されて一家は苦しい生活を強いられたという。加えて父がエンデが20代の時に美術学生と愛人関係になり、彼女と同棲を始めたため母を経済的に支えるために苦労したようだ。1961年、エンデは『ジム・ボタンの機関車大旅行』(Jim Knopf und Lukas der Lokomotivführer)でドイツ児童文学賞を受賞し文壇で活躍するようになった。

 『はてしない物語』のバスチアンは父子家庭という設定であり、最後には父親に生命の水を届けたいという思いでファンタージエンから現実へと戻って来る。おそらく若い頃に父親から見捨てられたトラウマと父親への複雑な思いがここに込められているのだろう。

 

モモ (岩波少年文庫)
 

 

 筆者が幼少期によく母親に読んでもらった『イソップ寓話』を除いて、初めて海外文学に触れたのは、おそらくエンデが1973年に発表した『モモ』だったと思う。エンデは今作で二度目のドイツ児童文学賞を受賞し世界的にも有名になった。小学生低学年だった筆者も「時間どろぼう」という概念にとても強烈な印象を受けたことを覚えている。現実世界とつながる不思議なパラレルワールドで成長するジュブナイルが現在も変わらず少年少女の心を揺さぶり続けるのは、そこに普遍的「愛」のエッセンスが散りばめられているからだろう。筆者は、今でも白い大きな犬、サモエドなどを街で見かけると「ファルコン!」(映画に登場する白い空飛ぶ竜。原作内ではフッフール)と心の中で呼びかけてしまう。半世紀前に書かれた『はてしない物語』が未だに色褪せないことは、その物語の大きな力の証左となっている。

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