映画鑑賞のススメ~読書好きに観て欲しい映画5選~

 皆さんは読書が好きだろうか? 昨今はスマホなどの携帯端末の普及で動画配信のサービスが興隆し、活字離れが嘆かれて久しい。電子書籍などもようやく普及してきている感があるが、まだまだ一般的とは言い難いようだ。とはいえ、アニメもドラマもその多くに原作という物語がある。そこに映像美や役者の芝居などが加わり名作として昇華するところにエンターテインメントの素晴らしさもあるのではないか。今回は個人的に小説を執筆している筆者が、ぜひ読書が好きな方々にお勧めしたい映画を紹介していきたい。

 もともと筆者は小学生の頃、地元のテレビで年越しに毎度のように放送されていたリュック・ベッソン監督の名作『レオン』(1994年)のゲイリー・オールドマン演じる、悪徳刑事スタンスフィールドの格好良さに度肝を抜かれて以来、映画(主にミニシアター系)を観まくった後、細田守監督の『時をかける少女』が筒井康隆の短編を映画化したものだと知ってから――全くミニシアター系ではないが(汗)――、映画原作の小説にのめり込んで遂には自ら書くようになってしまった経緯があるのだ。今回は小説に目覚めた筆者が改めてその原作と映画の絶妙な関係、原作への愛を感じる作品をピックアップした。
【目次】

01.『ジェイン・オースティンの読書会』(The Jane Austen Book Club、2007年)

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 本作は、2008年に『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』の原案を担当、第81回アカデミー脚色賞にノミネートしたロビン・スウィコード監督の長編デビュー作。米小説家のカレン・ジョイ・ファウラーKaren Joy Fowler)原作のヒューマンドラマだ。英女性作家ジェイン・オースティンの6作の長編をさまざまな境遇を持つ6人が受け持ち、それぞれの見解や論評を披露していく読書会を通し、それぞれが人生を改めて見つめ直しながら一歩踏み出してゆく。

 2004年に、ファウラーは『What I Didn't See』でアメリカSFファンタジー作家協会 (SFWA) が主催するSF、ファンタジー小説ヒューゴー賞と並び、大きなネビュラ賞で「短編小説部門賞」を獲得している。デビュー時からSF作品の書き手であったようだが、今作がベストセラーになったほか、2014年には『私たちが姉妹だったころ(We Are All Completely Beside Ourselves)』でペン/フォークナー賞を受賞するなど現代文学作品も執筆している。本作で登場する唯一の男性会員であるグリッグはSFオタクであり、そこに彼女のベースであるSFのエッセンスが散りばめられているのも作品のフックとなっていて面白い。

 また、『プラダを着た悪魔』(2003年)メリル・ストリープのアシスタント役を演じ、ブレイクしたエミリー・ブラントが既婚者でありながら、生徒との恋愛に思い悩むフランス語教師役プルーディーを演じており、とても魅力的な点も筆者は押していきたい。

02.『薬指の標本』(L' Annulaire、2005年)

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 芥川賞作家、小川洋子の同名原作(1994年、新潮社)を仏映画監督のディアーヌ・ベルトランが映画化した。炭酸飲料の工場で働いていた、オルガ・キュリレンコ演じる主人公イリスは、作業中の事故で薬指の先端を切断してしまう事故をきっかけに仕事を辞めて、知らない港町へと引っ越す。そこで人々が前に進む為に、思い出の詰まった物を標本にするという奇妙な仕事をおこなう、マルク・バルベ演じる標本技術士のアシスタントとして働くことになったイリスが標本技術士に惹かれ、やがて自分の薬指を標本にしてもらおうと決意する。不可思議な世界と、本作が映画初出演のオルガ・キュリレンコの美貌、マルク・バルベのダンディズム満点の大人の色香漂うエロティシズムが絶妙に重なり合った名作。

 小川洋子と言えば、2006年に映画化もされた『博士の愛した数式』(2003年、新潮社)で有名だが、2004年に芥川賞受賞作『妊娠カレンダー』(1991年、文芸春秋)の「夕暮れの給食室と雨のプール」の英訳版が『ザ・ニューヨーカー』に掲載されており、世界的にも知名度が高い。ちなみに、これ以前に同誌に日本の小説が掲載されたのは、村上春樹大江健三郎のみだった。昨年末、同誌が選ぶ「The Best Books」の2018年度版に村田沙耶香芥川賞受賞作『コンビニ人間』(2016年、文藝春秋)の英訳版が選出されて話題となったことも記憶に新しいが、小川は日本の女性作家として多和田葉子らとともに世界への扉を開いたパイオニア的存在と言えるだろう。

 今作は極めて原作に忠実に再現されており、小川の持つ世界観が映画作品としても十二分に世界的スタンダードになり得るということを見事に証明している。さらに、今作で初めて劇伴を担当した英ロックバンド・ポーティスヘッドのボーカルであるベス・ギボンスの音楽も相性が良い。

03.『素粒子』(Elementarteilchen、2006年)

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 仏現代文学を代表する小説家・詩人のミシェル・ウェルベックの同名原作(1998年)を独映画監督のオスカー・レフラーが映画化した作品。不勉強ながら、当時の筆者はこの映画によりウェルベックを知った。バルザックなどヌーヴォーロマンの系統を正当に継承しながらも、イスラム原理主義や現在の大学制度に対する問題などを浮き彫りにするような作風で国内ではノーベル文学賞に最も近いひとりと目されている。

 今作は、そんなウェルベックの処女長編。国語教師として働くブルーノだが、出版して文学者として華々しくデビューすることを諦めきれていない。加えて妻と子がある身でありながら性欲を押さえきれず、教え子への欲望で妄想が日に日に過激になっていく。ブルーノと異母兄弟であるミヒャエルは対照的に色恋に興味がなく、分子生物学者として日々研究に没頭していた。そんな二人が運命的な恋愛を通し、再会しそれぞれの明暗分かれる運命の歯車が回り出す。原作はフランスが舞台だが、今作はドイツが舞台となっているほかは原作に忠実に描かれている。

 ウェルベックの作品にも言えることだが、ユーモアあふれる表現が散りばめられており、クスクスと笑える一方、生殖や精神病や家族の在り方など普遍的で重いテーマを真正面から描いている為、ずっしりとした重苦しいものが後に残る感覚を覚えた。しかし、人生について改めて考え直すにはぴったりの作品となっている。ブルーノを演じる独俳優モーリッツ・ブライプトロイの演技は相変わらず素晴らしい。

04.『パプリカ』(2006年)

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 日本SF小説界の生ける伝説、筒井康隆の同名原作を2010年に急逝したアニメ監督の今敏氏がアニメ映画化した。『時をかける少女』といい、今作といい、筒井の作品はアニメとの相性が抜群である。もちろん、監督の手腕に拠るところが大きいのも確かだ。

 今作は、時田浩作の発明した夢を共有する装置(DCミニ)を使用するサイコセラピストのパプリカ(千葉敦子)が研究所から盗み出されたDCミニを悪用し、人々の精神を崩壊させる犯人をDCミニを使いながら追っていく夢と現実が複雑に絡み合う近未来SF。

 筒井は、心理学者の河合隼雄氏について著名人の評論を集めた『河合隼雄を読む』(1998年、講談社)の中で、河合氏に自身が人殺しをする夢について語ったエピソードを上げ、

しばしば見る夢の話を河合氏にお話ししたことがある。(中略)河合氏は「その≪殺した≫というのは、きっと自分自身でしょうね」と言われ、おれはあっと思った。

と話しており、今作でもパプリカのサイコセラピーを受けている刑事の粉川利美が夢の中で自身を射殺する場面があり、彼は刑事になる前に俳優になりたかったということを思い出すところは上記のエピソードによるものだろう。

 さらに、ミュージシャンの平沢進が手掛ける劇伴もこの奇妙な世界観を色鮮やかに彩っており、日本の誇る才人たちの共同作業によって生まれた奇跡の結実にため息が出るほどである。

05.『勝手にふるえてろ』(2017年)

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 最後は一昨年映画化された、芥川賞作家・綿矢りさの同名原作(2010年、文藝春秋)の恋愛物語を紹介する。会社の経理課に務める江原良香は、中学生の時から想いを寄せるイチ(一宮)への恋愛妄想で日々生きており、恋愛経験がない。毎日通勤途中に出会う道すがらの人々と他愛もないことを語ったりしている。そんな良香に想いを寄せる同僚のニ(霧島)から猛烈アピールを受け、同僚の来留美に相談しながら適当に付き合うが、ある時、中学の同窓会の案内を受け良香は再びイチへの想いを燃え上がらせる。


 綿矢りさは、今作の前にテレビドラマ化もされた、子役タレントの半生を描いた『夢を与える』(2007年、河出書房新社)にも言えるが、自分の世界に閉じこもっていた女性が一歩外に出て、現実に打ちのめされながら最後に光を与える物語を描いており、読後のカタルシスが凄いので作品のファンになる読者は多いだろうし、それが彼女の人気の一因でもある。

 しかし、この作品の良さは、ひとえに良香を演じた女優の松原茉優の演技にある。映画初主演とは思えないくらい、とにかく素晴らしい。これは観てもらえば分かると思う。ちなみに同作で『第42回日本アカデミー大賞』の優秀主演女優賞を獲得している。『恋するマドリ』(07年)、『でーれーガールズ』(15年)で彼女を起用し、3本目の仕事となる大久明子監督も「彼女が18歳で出会った時から完璧に、『松岡茉優』でした。松岡さんとは3本目。無茶な脚本を渡しても一緒に闘ってくれるという安心感もありました」と制作時に語っている。

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 ミュージカルの要素も盛り込まれているので、ハロープロジェクトハロプロ)の大ファンを公言している彼女の歌とダンスにも生き生きとした活力を存分に感じられる。

 

 いかがだっただろうか。2000年代の作品に偏ってしまったが、今後は新しい作品や古典のような作品も紹介していきたいと考えている。読書に興味のない方も、筆者のようにこれらの映画を観てから原作に興味を抱いてもらえれば光栄である。

音楽論考:ビリー・アイリッシュ、世界が熱狂する新たな才能に見る音楽シーンの変革期

今週のお題「わたしの好きな歌」

 現在、世界中が夢中になっているアーティストと言えば、ビリー・アイリッシュ(Billie Eilish)と言っても過言ではないだろう。今年3月にリリースされたデビューアルバム『WHEN WE ALL FALL ASLEEP, WHERE DO WE GO?』は、Billboard 200とUK Albums Chartで1位を獲得。音楽ストリーミングサービスSpotifyでの再生回数はすでに数十億回を記録している。今年の米『コーチェラ・フェスティバル』や英『グラストンベリー・フェスティバル』など世界の大型フェスでのパフォーマンスも話題になったばかり。今年は上半期が過ぎて間もないが、恐らく彼女の年になるだろうし、グラミー賞ノミネートも間違いないだろう。最多部門受賞にも期待がかかる。今、世界はなぜ彼女にこれほど熱狂しているのか? 彼女の音楽的才能はもちろん、ファッション、思想、そして現在の音楽シーンの状況など様々な要素が重なり合ったことが彼女の世界的ブレイクに繋がっている。

アーティストとしての類稀なる才能

 ビリー・アイリッシュは、米カルフォルニア出身の若干17歳のシンガーでモデルだ。2016年にデビュー・シングル「Ocean Eyes」を音声ファイル共有サービスSoundCloudでリリース(同シングルはInterscope Recordsから再リリースされた)。同曲が2017年8月11日にEP『Don't Smile at Me』をリリースし、同EPはアメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリアでトップ15入りを果たし、一躍世界のトップアーティストの仲間入りを果たした。2018年8月には『Summer Sonic 2018』で初来日している。

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Billie Eilish - Ocean Eyes (Official Music Video)

 デビュー曲「Ocean Eyes」はビリーが13歳の時に、現在も制作タッグを組んでいる実兄のフィニアス・オコンネルが自身のバンドの為に書き下ろした曲を彼女が歌ったもので、約1400万回再生されるという大きな評判が彼女が注目されるきっかけとなった。“天使の歌声”と称されるその歌声は、クセになるようなウィスパーヴォイスから透き通るハイトーンヴォイスまで変幻自在。まるで地下の奥底から天空へと飛翔するように移り変わるそのレンジの広さが特徴的だ。

 今年3月にリリースされたデビューアルバム『WHEN WE ALL FALL ASLEEP, WHERE DO WE GO?』は、Billboard 200とUK Albums Chartで1位を獲得。アメリカでは2000年代生まれでアルバム1位を獲得する初めてのアーティストとなり、イギリスではアルバム1位を取った最年少の女性となった。

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FINNEAS - I'm in Love Without You (Live at The Troubadour)

 フィニアス・オコンネルはFINNEASとしてソロ活動を行っている。昨今のトレンドでもあるプログレッシブ・ハウス的な音楽性を感じる。ひとりコールドプレイ(Coldplay=英ロックバンド)のようだ、というのが彼のライブ映像を観た筆者の感想だ。

 個人的には、彼らのサウンドに英・ブリストルの3人組バンド、ポーティスヘッド(Portishead)や同郷のユニットであるマッシヴ・アタックMassive Attack)のような90年代後半から00年代に興隆した、いわゆるトリップ・ホップ、「アブストラクト・ヒップホップ」に見られるHipHopやJazzなどからの影響を受けたダークな印象を思い起こさせた。

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Portishead - Glory Box

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Billie Eilish - wish you were gay (Live)

 彼女の才能はこの「wish you were gay」によく表れている。マイナー進行のこの曲に対して、彼女の当てたサビのメロディラインはポップで明るい。普通は楽曲に引っ張られてしまうが、これが彼女が他のアーティストとは一線を画すメロディセンスだろう。ポーティスヘッドのサウンドイカーであるジェフ・バーロウは、ボーカルのベス・ギボンズとの出会いを振り返り「こんな暗い音楽に歌をのせてくれる人がいるとは思わなかった」と語っているが、ビリーはベスとはまた違ったアプローチでの世界観を持っていると言える。

 さらに、この歌詞が素晴らしい。内容的には片思いで傷つきたくないから相手がgay(同性愛者)であればいいという10代らしい恋愛感情を歌ったものだが、この歌詞にはその中に数字の1~12(One~Twelve)が散りばめられている。こういう言葉遊びを難なくリリックとして書ける彼女の詩的センスにも唸らせるものがある。以下にその冒頭を記す。

<Baby,I don't feel so good

ベイビー、気分が良くないの
Six words you never understood

あなたが絶対理解しない私の6単語
I'll never let you go

もう離さないよ
Five words you'll never say

あなたが決して言わない5単語>


Songwriters: Billie Eilish O'Connell / Finneas Baird O'Connell
wish you were gay lyrics © Kobalt Music Publishing Ltd., Universal Music Publishing Group 翻訳:松尾模糊

 6という数字から始めるのも乙なところ。こういう細かな場所に彼女の天才的センスを否応なく感じる。


影の立役者? エミット・フェン

 ところで、筆者は正直を言うとフィニアスのサウンドに『WHEN WE ALL FALL ASLEEP, WHERE DO WE GO?』のダークさや世界観の片鱗を感じることができなかったのだが、2017年8月にリリースされたEP『Don't Smile at Me』の共同プロデューサーのエミット・フェン(Emmit Fenn)のサウンドを聴いた時、その疑問は払拭された。

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Emmit Fenn - Painting Greys

 彼はカルフォルニアを拠点に活動するシンガーソングライター、コンポーザー、プロデューサーである。この世界観はまさに『WHEN WE ALL FALL ASLEEP, WHERE DO WE GO?』に通ずる。エミットの名前は無くなっているが、同作の楽曲が『Don't Smile at Me』とほぼ同時期に制作されていたことを考えれば彼の影響力を受けていたことは間違いないだろう。

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Billie Eilish-bitches broken hearts

 3人で制作された「bitches broken hearts」ではエミットの世界観が少し抑えられている印象を受ける。もしかしたら、エミット自身が2人を立てようとした為に彼自身の存在感が薄れてしまったのかもしれないし、それを感じ取った2人が彼を外すことでより濃く彼自身の存在感を彼らのサウンドに取り込めたのかもしれない。ちなみにエミットはコールドプレイの名曲「Yellow」をリミックスしている。

 そして、ビリーはHipHopR&Bを好んでよく聴くと言い、米ラッパーのタイラー・ザ・クリエイターなどをフェイバリットに挙げている。こちらの影響は彼女が蜘蛛を口から出すことで話題となったミュージックビデオ(MV)やファッションに表れている。

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Tyler The Creator - Yonkers

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Billie Eilish - you should see me in a crown (Vertical Video)

アヴリル・ラヴィーンとの共通点

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Avril Lavigne - Sk8er Boi (Official Music Video)

 筆者の世代となると、どうしてもカナダ出身のシンガーソングライターであるアヴリル・ラヴィーンと彼女を重ねてしまう。というのも、2人には多くの共通点があるからだ。まず、2人とも幼少期からアヴリルは教会で、ビリーはロサンゼルス児童合唱団で歌っており、歌手としての英才教育を受けている。そして早くから制作活動を始め、アヴリルは2002年6月リリースのデビューアルバム『Let Go』で17歳の時にイギリスのアルバムチャートで最年少での1位を獲得。ビリーは今年、その記録を破る16歳でUKチャート最年少記録を更新した。

 さらに2人ともモデルとしての活動もおこなっているが、アヴリルは157cm、ビリーは161cmと北米人としては高身長ではなく、アヴリルのスケーター風ファッション、ビリーのストリート系ファッションとユニセックスな、どちらかと言うとメンズライクな格好で同世代のファッション・アイコンとしても絶大な人気を誇っている。

 ビリー自身もアヴリルの大ファンのようだ。彼女は「私にとってアヴリルは全てよ。アヴリルを愛してる…。本当に…、私はアヴリル・ラヴィーンを愛してる。それだけ。愛しかない。愛だけよ」と答え、「彼女は私の番号持ってるのよ。ときどき、テキストが来るの。すっごいクール。“ヘイ、アヴリルよ”とか。オー・マイ・ゴッド!」と米・音楽媒体『Pitchfork』のインタビューで話している。

pitchfork.com

 米VOGUE誌はビリーを“次世代のイット・ガール(話題のあの子)”と評し、彼女は今やELLEやNYLONなど有名ファッション誌でも引っ張りだこだ。インスタグラムでは現在、3000万近いフォロワーを持つ。

 ビリーは今年「アイ・スピーク・マイ・トゥルース・イン・#マイ・カルバン」と題された、ファッションブランドのカルバン・クラインのキャンペーンに出演し、その中で自身がサイズの大きな服を着ている理由について、世間に自身のすべてを知られたくないためと以下のように語っている。

 「誰にも意見を言われることがないでしょ。だって、彼らはその下にあるものを見ていないんだから。誰からも『スリムな子』だとか、『スリムじゃない』、『お尻が大きい』だなんて言われることはない。誰もそういうことは言えない。だって、知らないんだから」

nme-jp.com

 こういう彼女の思想は世界中の多くの女性から絶賛されており、10代の彼女が世界中から支持される大きな理由の一つとなっている。

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Avril Lavigne - Hello Kitty (Official Music Video)

 また、アヴリルは日本のアニメなどの文化のファンでもあり、彼女が2014年4月に日本の東京・原宿で撮影した「Hello Kitty」という楽曲のMVは<ミンナ サイコー アリガトー カ・カ・カ・カワイー カ・カ・カ・カワイー>という日本語の歌唱とともに話題となった。ビリーもアニメファンで『美少女戦士セーラームーン』のキャラクターがでかでかとプリントされた衣装でメディアの前に登場したこともあり、宮崎駿作品のファンであることも公言している。

i-d.vice.com

 ビリーは、米HipHopアーティストのカニエ・ウェストとのコラボなど世界的に活躍するアーティスト・村上隆とのコラボMVを4月に公開している。

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Billie Eilish - you should see me in a crown (Official Video By Takashi Murakami)

音楽シーンの新たな兆候と希望

 米ロックバンドのニルヴァーナNirvana)の元ドラマーでフー・ファイターズFoo Fighters)のフロントマンであるデイヴ・グロールは、ビリーの人気を1991年のニルヴァーナの勢いと比べ「俺の娘がビリー・アイリッシュに夢中なんだ。今の彼女は、1991年のニルヴァーナと同じだと思う。つまり、みんなが『もうロックは死んだ』と言っている時に、ビリーを観ると、ロックンロールは全然死んじゃいない、と思うから」と彼女のロック・アイコンとしての存在感を認めている。

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Nirvana - Smells Like Teen Spirit (Official Music Video)

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 ここ数年はHipHopやダンスミュージックがポップシーンを牽引している。ビリー・アイリッシュという若き才能溢れるアイコンが、シーンに風穴を開けたことは間違いない。彼女の音楽はHipHopR&Bの影響下にありながら、軽々とそのジャンルを横断し新たな音楽の可能性を掲示した。英ロックバンド、レディオヘッドRadiohead)のフロントマンであるトム・ヨークは「ビリー・アイリッシュのことは好きだよ。自分の好きなことをやっていると思うしね。誰も彼女に指図するべきではないね」と彼女について好意的な意見を述べている。

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 問題は彼女たちが次作で彼らの音楽を確立し、彼らの音楽がまぐれでなかったことを証明できるかということと、彼女たちに続くシーンを盛り立てるだけの新たなアーティストが台頭してくるかということだ。

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Two Door Cinema Club - Bad Guy (Billie Eilish) in the Live Lounge

 今年8月に東京、大阪で開催される音楽フェスティバル『Summer Sonic 2019』での来日も決まっている、北アイルランドのロックバンド、トゥー・ドア・シネマ・クラブ(Two Door Cinema Club)もビリーの人気曲「Bad Guy」をカバーしている。彼女の音楽がミュージシャンにも影響を与えていることは確かだろう。

 彼女のブレイクにはもう一つ、Netflixのオリジナルドラマ『13の理由』のサウンドトラックに選ばれたということも起因しているだろう。同ドラマは米女優で歌手のセレーナ・ゴメスが製作総指揮を務めた、米・作家ジェイ・アッシャーのデビュー作をドラマ化したもので、2017年にNetflixで最も観られた人気作。セレーナ自身の楽曲や80年代~90年代の名曲とともに英・新人のザ・アーティストジャパニーズ・ハウス(The Japanese House)などが起用されいる。同ドラマのセカンドシーズンではビリーと米R&Bアーティストのカリード(Khalid)とのコラボ曲「lovely」(2018年4月リリース)が起用され話題になった。

 Spotifyなどストリーミングサービスの普及で音楽の消費形態が変化し、大きな変動期にある音楽業界だが、ビリーがサウンドクラウドでブレイクしたようにミュージシャンも自身の手でチャンスを掴める時代となった。実際に米HipHopアーティストのチャンス・ザ・ラッパーなどレコード契約を経ないでグラミー賞にノミネートするほど既存の音楽市場の外で活躍するミュージシャンも存在する。今後、突然、彼女のような若い新たな才能が出現することも不思議ではない。地殻変動でシーンがより活性化するよう願うばかりだ。

創作試論:「誤配」がもたらす資本主義下のコンテンツを照らす光

 小説投稿サイト「カクヨム」は今年4月、「Web小説を書く人が直接収益を得られる環境作り」を行うことを告知した。

kakuyomu.jp

 ここで掲示されたのは二つのシステムだ。一つは作品に広告を付け、作者にその利益をPV(ページビュー)に応じて還元するもの。アドセンスによる広告収入は現在のウェブ媒体でオーソドックスな収益システムだ。こちらは今年秋頃に導入される予定。

 正直、このシステムについて、これが本当に作者と読者双方にとって良い形なのか私自身は懐疑的である。というのも、ここで評価されるのはPV=数だけだからである。これは、古くはテレビの視聴率から、インターネットの広告収入を主にしたアフィリエイトサイトなどに見られるメディアの動向に顕著だが、著名人のスキャンダルばかりが取り上げられる情報番組しかり、炎上案件をただただ煽っていくまとめサイトしかり、結局、創作物の中身よりもその話題性やタブー性(議論を呼ぶ題材)だけが取り沙汰されて次の週には忘れ去られてしまうような、全く普遍性のない流動的なフワフワとした作品が乱立することが見て取れるからである。

 もう一つのシステムは作者に読者が金銭を直接支払う、いわゆる投げ銭方式だ。こちらはnoteなどが記事を一部有料化したり、月額でまとめて何本かの記事を閲覧できたりする仕組みがありカクヨムでも検討していくという。上に述べたようにこちらのシステムの方が私としては信頼感のあるものである。もちろん、結局多く読まれなければまともな収益に繋がることは難しく、先の課題は残るだろう。

 小説投稿サイト「小説家になろう」も結局、サイトを訪れる客層に好まれる異世界系だけが無限にループされる体になった(カクヨムにもすでにこの傾向が見られる)ことから見ても現在のコンテンツが持つ課題は明らかだろう。これは読者だけの問題ではなく、編集者の怠慢でもある。SNSで多くのフォロワーを持つインフルエンサーや、又吉直樹の成功に味を占めた、その後の著名人による執筆ラッシュ、ただ数字を安易に求めた結果、その思想やポテンシャルを掘り起こす様な地味な作業は敬遠されている。これは出版業界の不況で人員不足や無名の新人が全く読まれない現状がもたらした負の連鎖でもあるだろう。しかし、この状況こそが、ベストセラー作家の韓国ヘイトや、Wikipediaをそのままコピペしたような著作をそのまま世に出したような編集者が「売れてから物を言え」と言うような言説を許してしまうようになったのではないか。ものを売るのは、営業の仕事である。クリエイターが営業を担わないといけなくなると、私は大きな支障がクリエイターに及ぶことを懸念する。というのも、クリエイターの思想と資本主義の思想は根本的に違うからだ。

 作家・思想家である東浩紀は、『ゲンロンβ32』で「運営と制作の一致、あるいは等価交換の外部について 観光客の哲学の余白に・番外編」と題したエッセイの中で、美術家で美術批評家である黒瀬陽平の著作『情報社会の情念』に登場する「運営の思想」と「制作の思想」の対立を用いて以下の様に語っている。

「運営の思想」は、SNSや動画投稿サイトにおいて、コンテンツの投稿や生成を最大化するように仕組みを整える、文字どおり「運営」の発想を意味している。他方で「制作の思想」は、そのような仕掛けに抵抗しつつ、あるいはそれを利用しつつ、独自の作品を作ろうとするクリエイターの試みを意味している(黒瀬はこのような明確な定義を与えていないが)。ひとことでいえば、運営の思想とは、プラットフォームのほうがコンテンツよりも優位だと考える立場のことで、制作の思想とは、コンテンツのほうがプラットフォームよりも優位だと捉える立場のことである。運営の思想とは、要は商品開発の思想であり、資本主義の思想のことである。現代は運営の思想が優位な時代だが、しかしそれだけでは、文化「産業」は栄えても文化そのものは痩せ細る。なぜならば、プラットフォームからすれば、コンテンツはあくまでも代替可能で交換可能な「商品」でしかないからである。(中略)現代ではクリエイター志望者は無数にいる。しかしプラットフォームは少数しかない。クリエイターは数少ないプラットフォームに殺到するほかないが、プラットフォームのほうは、運営の言うことを聞くクリエイターをいくらでも市場から調達することができる。結果として、市場では、大衆が求めるものばかりが増殖し、コンテンツの多様性は消える。

 

情報社会の情念 クリエイティブの条件を問う (NHKブックス)

情報社会の情念 クリエイティブの条件を問う (NHKブックス)

 

 

 

ゲンロンβ32

ゲンロンβ32

 

 

創作物と作者の関係

 ここで、創作物と作者の関係性について考える。2019年4月に俳優でミュージシャンのピエール瀧がコカイン使用の容疑で逮捕された際、電気グルーヴが所属するソニーミュージックレーベルズは彼らの過去作に及ぶ全作品を販売・配信停止、在庫回収という方針を示した。

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 これに対し、措置の撤回を求めて署名活動を行う社会学者の永田夏来らが4月15日、都内で記者会見を開き、ソニー・ミュージックレーベルズに、集まった6万4000件を超える署名を提出した。一度世に出た「作品」を作者と切り離して評価すべきかどうかという問題が改めて立ち上がったわけだ。私自身は作者と作品の評価は基本的に分けられるべきだと考える。なので、今回の場合もピエール瀧は刑法的な罰則を受けることでその罪を償うべきで、彼の参加した作品が回収されるという、社会的制裁を受ける必然性はないと思う。よく引き合いに出されるのはThe BeatlesThe Rolling Stonesで彼らは実際に薬物で逮捕された過去を持っている。違法薬物以外で言うと、佐川一政やジョン・ゲイシーなど殺人事件の犯人だってその作品は高く評価されているという事実がある。

grapee.jp

 しかし、ここで絶対に間違ってはならないのは犯罪を犯した異常者が必ずしも優れた作品を残せるとは限らないということだ。記憶に新しいのは、1997年に発生した神戸連続児童殺傷事件の加害者、酒鬼薔薇聖斗と名乗り、2名を殺害し3名に重軽傷を負わせた犯人――当時未成年だった為、少年法に基づきプライバシーが守られた――が元少年Aとしてその事件から社会復帰までを振り返る自伝的エッセイ『絶歌』を発売したことで大きな議論となった。彼はホームページも開設しており(現在は閉鎖)その自己陶酔的で自慰に満ちた表現が垣間見えたわけだが、佐藤一政や澁澤龍彦などを尊敬する人物として掲げており、彼らに対する憧れとして犯罪行為に走った極めて自己中心的で観念的で実体のない思想がただダラダラと書きなぐられた同書は話題性意外に論じられる点はなく、彼自身も第二の佐川一政には当然なれなかった。作者の評価はやはりその作品によって決まることは、このことからも明らかだろう。

 

絶歌

絶歌

 

 生活と創作

 以前、私が参加している同人の合評会で人生における「恥部」について話を聞く機会があった。私小説では自身の体験談をそのまま小説として昇華した、ノンフィクションに近い創作となるわけだが、小説を書く上でプライベートな体験、両親の離婚や虐待、異常な性体験、犯罪行為などが大きく寄与するのか、もしも小説が面白くなるのならば、自身の家族でも犠牲にすることができるのか、といったことでちょっとした論争となった。私は上に述べたように作者自身と作品は切り離されるべきで、フィクションはその想像力や構成、表現力によって昇華されるものであり、その上で実体験も多少なりとも影響すると考える。なので、もしも何かを犠牲にすることで作品が面白くなるならば犠牲にするべきだと思う。しかし、それは最終的なエッセンスにしかならないと思っている。つまり、壮絶な人生を送ってきた者だけにしか壮絶な物語は書けないのか、と言えば元少年Aの例を見れば違うし、取材を丹念に行えばリアリティーの部分は十分にカバーできる。では、聖人君子で公務員みたいな人物が機知に富んだ物語を書けるのかと言えば、それはそれで甚だ疑問である。結局、作品に懸ける想い、動機、過程、積み重ねられた研鑽、時代性など多くの要素が集合した結晶が作品としての評価として繋がるわけで、そういう意味でやはり人生を賭したものでなければ良作は決して産まれない。だが、その評価は資本主義的な評価とは別である必要がある。

 芥川龍之介は初期には歴史物など生活とは違う次元での創作が主だったが、晩年には極めて自伝的な「大導寺信輔の半生」など大きく作風が変わった。彼が自死する前に妻に宛てた遺書で「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」が彼の死を決意させた理由として挙げていたことは有名だ。文壇である程度地位を得た彼が、プロレタリア文学が勃興した当時ブルジョア作家として批判を受けていたことにも大きな影響を受けていたのではないか。アメリカのロックバンドAerosmithなどに影響を受けた、1990年代のハードロック界隈や猟銃自殺したNirvanaカート・コバーンなどメインストリームのミュージシャンがドラッグや派手な私生活でスキャンダラスな生活を送っていたシーンで、イギリスを代表するロックバンド、Radioheadのフロントマンであるトム・ヨークは『Kid A』という2000年代を代表する名盤を制作したその時期に、音楽誌『rockin' on』のインタビューでロックなんて退屈だと述べ、「ロック・ミュージシャンはみんな家に帰って、生活を取り戻すべきだよ」と語っている。

 

河童・或阿呆の一生 (新潮文庫)

河童・或阿呆の一生 (新潮文庫)

 

 

 

RADIOHEAD (rockin’on BOOKS)

RADIOHEAD (rockin’on BOOKS)

 

 

 創作物はどう評価されるべきなのか。コンテンツが資本主義社会の中で生き抜くにはまずその消費について考えなければならない。『新記号論 脳とメディアが出会うとき』で、フランス文学者、メディア情報学者の石田英敬アメリカ型資本主義の成立について説明する。

消費を生産することができるようになった資本主義であるわけです。そこで、プールのある芝生つきの白い家で、ふたりの子どもと可愛い奥さんがいて車でパパが会社から帰ってくるような「アメリカ式生活American way of life」の夢がエンドレスに生み出され、そうやって、生産と消費の資本主義のサイクルを無限循環させることができるようになったわけです。

 さらに、20世紀の資本主義社会では生産と消費の一つのサイクルが飽和すると恐慌が起こると考えるマルクスの理解がこの無限サイクルによって成り立たないと言い、これが冷戦の終結マルクス主義者の敗北につながったと石田は語る。そして、彼は「消費をもっと理解することからしか、つぎの社会へのオルタナティブはない」と訴える。

新記号論 脳とメディアが出会うとき (ゲンロン叢書)

新記号論 脳とメディアが出会うとき (ゲンロン叢書)

 

  イギリスの作家、文化批評家、k-punkとして知られているブロガーのマーク・フィッシャーは、2017年に自らの手でその生涯を終えた。『資本主義リアリズム』でも明らかにしたように資本主義への対抗軸を模索していたわけだが、東が体現しようとしている彼の哲学はきっとマークを救い得たと思っている。東は先に述べた『ゲンロンβ32』で以下のように二つの思想の対立を乗り越える考えを示している。

必要なのは、資本主義に対して、外部を求めるのではなく、むしろその内部を「変形」することではないか。(中略)ぼくたちの「商品」にはもうひとつの側面がある。ぼくたちはそこにつねに、等価交換以上のなにか、購入者が事前に欲望=予想していたものとは異なる経験を忍び込ませるように試みている。(中略)ゲンロンは、商品を売りながらも、つねにそのなかに余剰を忍び込ませている。そして、その余剰によって、購入者を等価交換の外部へと誘っている。これは、言い換えれば、等価交換を意図的に「失敗」させるということでもある。購入者は、ゲンロンの商品を買うときに、少なからぬ確率で、最初に欲望=予測していたものとは違うなにかを受け取ってしまう。だからそれは「失敗」である。けれども同時に、それは、べつの視点から見れば、購入者の欲望=予測が「変形」され、新たな創造性の回路が開かれるということでもある。つまりは、ぼくの考えでは、制作の思想は、運営の思想の外部に静的に存在するのではなく、その失敗においてこそ動的に可能になる。ぼくはしばしばそれを「誤配」と呼んでいる。

 つまり、創作物に対して人々が期待、「欲望」するものとは違う何かをそこに埋め込むことができることが大事となるのではないか。そして、それを見出す視点が肝となってくる。それは編集者や批評家が担うもので、これが高く評価されること、「誤配」が新たなる資本主義の中を「変形」させる価値観を生み出す大きなうねりとなるだろう。それこそが資本主義下でコンテンツが「制作の思想」を保ったまま生き残れる対抗軸となるのではないか。東はこう仮定し彼の哲学をゲンロンの運営という形で実践した。彼自身は昨年末に代表を退いたが、彼の哲学は新代表となった、ロシア文学者の上田洋子の下で受け継がれていくだろう。

 マークと東が出会っていれば、悲劇は回避できたのではないだろうか。現実は残酷だとはよく言うが人間が救われるには、やはり“資本主義的リアリズム”だけでは足りない。マークの師でもあったイギリスの哲学者ニック・ランドが唱えた、救いを資本主義の外部に求める「加速主義」もマークを救えなかった。ニックは2012年にネット上に「暗黒啓蒙(Dark Enlightenment」なるテキストを発表しているが、やはり暗闇は人々を引きずり込む危うさを孕んでいる。私は東が唱える「誤配」、彼の体現する哲学がいつか人々を照らす新たな光となることを信じている。

 

資本主義リアリズム

資本主義リアリズム

  • 作者: マークフィッシャー,セバスチャンブロイ,河南瑠莉
  • 出版社/メーカー: 堀之内出版
  • 発売日: 2018/02/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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『しずけさ』町屋良平(文學界5月号掲載作品)書評

 

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文學界5月号


僕には鬱病になった親戚がいる。朝から晩までテレビの前で横になり、テレビを観ているのか観ていないのかも分からないほどに何の反応もない。もともと無口な人ではあったが、輪をかけて口を利かなくなり、動かないが食べはするのでぶくぶくと太り、ガタイの良かった身体と端正な顔立ちは見る影を潜めた。原因ははっきりとしていた。自営業を営む親戚の実家の経営が傾き、実家を継ぐためにその手伝いをしていた親戚の人生の展望が失われてしまったからだ。それでも、僕の父が借金を肩代わりし何とか破産を逃れ今も細々と営業している。父は何も言わなかったが、母はその詳細と不満を僕に語った。僕も母側に立ち、せめてグータラしてないで働けよと親戚の家のテレビの前で寝転ぶ姿を尻目に思っていた。やる気を見せろよと……。社会に出たこともなく、親のすねかじりだった僕が愚かであったのは言うまでもない。しかし、鬱病と言えば今は幅広く疾患として認知されているかもしれないが、15年以上前はまだまだ、特に日本の片田舎ではただの“甘え”くらいにしか捉えられていなかったことはその当時の僕の感覚としてあった。
 この作品では、憂鬱と不眠とで退職した主人公の棟方くんが実家に戻り、その近所にある久伊豆神社で家庭の事情で深夜に家から追い出されている小学生のいつきくんと出会い、二人の真夜中の交流から棟方くんが再就職活動を行うまで回復していく過程を描いている。ここで特筆すべきなのは、棟方くんは病院で診断は受けているものの、重篤精神疾患を患っているわけではなく昼夜逆転の生活を送っており、本文でも――棟方くんが前職を退職した要因はただのゆううつでしかなく、勤務先はブラック企業でもなければハラスメントをふくむ深刻な人間関係の不和もない。ただなんとなしのゆううつと不眠でかれは仕事を止めてしまった。――と書かれている通り、極めて困難な劇的な状況下の人物ではない極々ありふれた日常に焦点を当てていることである。これはいつきくんの場合もそうで、彼の家族は深夜に彼を家に置いておけない特殊な事情があるものの、それ以外は暴力を振るうわけでもなく学校でいじめられているわけでもなく、ただ深夜に神社で家に戻るまでの間、時間を潰さなければならないという特別に悲劇的な少年でもない。そして、二人ともその状況をよく理解しており、しかしその「ゆううつ」を如何ともし難い自身に悲観していることが身体と心のズレとなって物語の射程を押し伸ばしているところにこの小説の凄さがある。
 芥川龍之介は遺書にその動機として「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」と記していたことは有名だが、プロレタリア文学が台頭していた当時、ブルジョア作家として批判もされていた彼の苦しみも、もしかしたらこういうところにあったのではないか。LGBTQやフェミニズムやポリコレによる、いわゆる弱者の権利や主張が声高に叫ばれる今、貧困層でも、性的マイノリティでも、身体障害者でも、低学歴でもない人間に果たして物語はないのだろうか? そんなことはないということは誰にでもわかる話であるが、それもマジョリティ側の大きな観念として捉えられ、人々はそれぞれがSNSで自身のメディアを獲得した結果、政治的イデオロギーをその生活に癒着させてしまった。20世紀ドイツの哲学者カール・シュミットは『政治的なものの概念』で「友敵理論」を展開したが、今は「マジョリティVSマイノリティ」という大きな分断が起きているのではないか。芥川は生活と芸術は相反するものだと考え、生活と芸術を切り離すという理想のもとに作品を執筆したといわれる(晩年はその考えを一変させ、「大道寺信輔の半生」など告白的自伝を執筆してはいるが、これが彼の精神を蝕んだと考えることもできる)。

 

政治的なものの概念

政治的なものの概念

 

 

 

河童・或阿呆の一生 (新潮文庫)

河童・或阿呆の一生 (新潮文庫)

 

 


 僕自身、物語を書く上で食うに困ったことも無ければ、両親は存命で離婚もせず仲睦まじく、五体満足で重度の疾患もないし、Fランだが四年制大学も卒業し、就職もできた(現在はフリーランスだが……)。恵まれ過ぎていることに罪悪感を抱くことさえ許されない恵まれようであり、こんな僕に書くべき物語などあるのだろうか? と自問し続けてきた。そんな僕の暗闇に一筋の光を与えてくれた今作に町屋良平の小説家としての計り知れない可能性を感じた。